「妻の妹」と“不倫”した天皇たち なまなましい密会の記録は『日本書紀』にも
日本史あやしい話17
■美しい「実の妹」に惑わされ…
「我が問ふ妹(いも)を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜(こぞ)こそは 安く肌触れ」
何とも淫靡な歌である。妹を愛おしいと思う兄が妹と肌を触れ合わせ、禁断の恋が実ったその嬉しさを、情念を込めて歌い上げた恋歌である。「愛しい妹よ、我が妻よ、今宵ようやく、心安らかに肌触れ合うことができた」というのだから、官能的という他ない。
こう詠んだのが、允恭天皇の第一子・木梨軽皇子。その彼が想いを寄せた女性というのが、同母妹の軽大娘皇女であった。『古事記』によれば、麗しい身体の白き輝きが、衣を通して外にまで光って見えた……といい、そこから、前述の弟姫同様、「衣通郎姫」と呼ばれた。この上なく男心をくすぐる淫靡な女性であったと考えられそうだ。
彼女はかつて、光明皇后や藤原道綱の母と並ぶ「本朝三美人」の一人とまで称えられたというから、実の兄とはいえ、心なびいてしまったとしても、無理からぬところであった。
もちろん、男女関係におおらかだったと言われる古代の日本社会においても、同母の兄と妹が情を通じ会うことなど、許されるものではなかった。そして、「禁じられれば、かえって燃え盛る」というのが世の常である。
兄が実の妹を恋い焦がれる思いは一層鮮烈となり、ついには志を遂げて、相通じてしまった。罪が問われることは承知の上。思いを遂げた後、「愛(うるわ)しと さ寝しさ寝てば 刈薦(かりこも)の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば」とまで歌い上げている。「思い余って一緒に寝た上は、もはやどうにでもなれ……」と開き直っているのである。
もちろんその後、二人に非難の声が浴びせられ、厳しい試練が待ち構えていたことはいうまでもない。『日本書紀』によれば、妹が伊予へと流され、兄は太子の座を同母弟(穴穂皇子)に奪われることを恐れて弟と戦うも、敗退。挙句の果て、自害してしまうのである。
■禁断の恋の「悲しい結末」
『古事記』の記述では、伊予に流されたのは、弟に捕えられた兄・木梨軽皇子の方で、兄を恋い慕う妹が伊予の国まで追いかけたということになっている。ただし、二人にとって悲しい結末を迎えたことに変わりはなかった。
悲恋物語の舞台となったのは伊予国の姫原、現在の愛媛県松山市郊外にひっそりと佇む軽之神社(昔は姫原神社と呼ばれていたとか)周辺である。「姫池」と呼ばれる小さな池に面して建てられた社、それが、二人が隠れ住んだと言い伝えられているところなのだ。「姫」は軽大娘皇女にちなんでいる。
二人はここで再会を喜び、しばし隠れ住んだ。しかし、「追っ手が迫ると、共に命を絶ってしまった」と言い伝えられている。神社の裏手に小さな塚が二つ置かれている(比翼塚)が、それは、村人たちが自害した二人を儚んで築いたものなのだとか。
ちなみに、木梨軽皇子の墓(東宮山古墳)は、ここから東へ約80㎞も離れた四国中央市にもあるが、その地の伝承では、「皇子がここで生涯を閉じ、妹とはついに巡り会うことができなかった」としている。禁断の恋とはいえ、愛し合う二人が死後さえ共に過ごすことができなかったとすれば、悲しいとしか言いようがない。
義理の兄との密会を待ち望む弟姫と、同母兄と通じた軽大娘皇女。いずれも「衣通郎姫」と称されたほどの美しさであったが、美貌も度が過ぎると、悲運を招くようである。美しさはやはり、「罪作り」というべきなのだろうか?
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